ファウンテンズ・アビーの概要
ファウンテンズ・アビー又の名をファウンテンズ修道院は、シトー会の修道院跡であり、周辺のスタッドリー王立公園とともに1986年にユネスコ世界遺産に登録されています。登録名は「ファウンテンズ修道院遺跡群を含むスタッドリー王立公園」。1983年から現在まで、ナショナルトラスト管理下。

シトー会(シトー修道会)はカトリック教会に属する修道会であり、ベネディクト会から派生した会派。改革を希求したフランス、ブルゴーニュ出身の修道士モレーム・ロベール(Robert de Molesme)が1098年、フランスのシトーに設立したシトー修道院を発祥とします。シトー会は、「聖ベネディクトの戒律」を厳密に守り、彫刻や美術による教示を禁止した点で、既存のベネディクト会修道院、とりわけクリュニー会(戒律のうち祈祷を重んじ、豪華な典礼を繰り広げ貴族的とも評された)と対峙する立場をとった。服装面にもその姿勢は現れており、壮麗・華美なクリュニー会と異なって染料を用いない白い修道服を着たことから、シトー会士は「白い修道士」とも呼ばれる。シトー会は戒律の中でも労働と学習を重んじ、自ら農具をとり農民らを指導して、森林に覆われていた北フランスの開墾や新農法の普及を行ったとされています。
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ファウンテンズ・アビーへのアクセス
周辺の町リポンからファウンテンズ・アビーのビジターセンターまでミニバスで所要15分。ただし、本数は一日3~5便と少な目。
ダラムからは車で1時間。ロンドンからだとヨーク駅まで電車で来てレンタカーかな。公共交通機関ではバスの乗り換えも多く本数も少ないので正直行きづらいです。
駐車場は無料で、十分なスペースがあります。入場料は、大人£17。 他のナショナル・トラスト物件も同様ですが、少しお高めの設定です。ナショナルトラストのメンバーになると年会費二人で£114ですが、毎回の入場料が無料なので、大体年間3回ナショナルトラスト管理の物件に行けるのであれば元が取れます。
ファウンテンズ・アビーの歴史
その来歴は、1130年代にヨークのセント・メアリー修道院から13人のベネディクト会修道士が新たな修業の場としてリポンにあるスケル谷と呼ばれる地に移り住んだことに始まります。ヨークといえば、現在は英国国教会第2位のヨーク大主教がいます。現在の姿であるゴシック建築のヨーク大聖堂建設が始まるのが12世紀半ばですので、これより少し前に来歴していることになりますが、ヨークには7世紀頃から大司教がおり、幾度もの異民族信仰に悩まされていた宗教的な中心地(特にベネディクト会)でしたので、ヨークの歴史から来歴したことになります。

当時のリポン周辺はウィリアム2世との抗争によって荒廃していました。シトー会修道士ジョフロア・デナイの指揮のもと1132年頃からファウンテンズ修道院の建設は進み、12世紀~16世紀の間に増改築を繰り返しながら巨大化していきました。最盛期は1000人を超える修道士が住み、シトー会も広大な土地や資産をもつ共同体へと発展しながら、周辺にも産業を興したと言われています。また、ヨーロッパの修道会との知的交流も盛んとなり、13世紀にはイギリスのシトー会修道院の中ではで1,2を争う規模となりました。

その後、1539年、ヘンリー8世がローマ教会(カトリック教会)と絶縁し、修道院解散法の制定とその後の争乱を受けて、ファウンテンズ修道院も閉鎖され、廃墟になってしまいます。ヘンリー8世がローマ教会と決別したのは、妻キャサリンと離婚してキャサリンの侍女アン・ブーリンと結婚することをローマ教会が拒絶したため、といった説明がされることもありますが、英国の王室財政に遠因を見ることができます。当時の英国は、宮殿や教会堂の建造に多額の出費をし、更にイタリア戦争に出兵するなどして王室財政は深刻な危機に陥っていました。イギリス宗教改革の一環として行われたヘンリー8世による修道院解散法の制定は、国内の修道院を解散させて土地を没収し王の所有とした後、貴族、ジェントルマン、商人らに払い下げるというものです。これによって、ローマ教会と深い関係にある勢力である修道院を廃止してその力を削ぎ、同時に王国の財政を潤すことを狙っていました。当時、イングランド全土の約4分の1が大小800余りの修道院の所有になっていたといわれ、修道院の収入は国家収入に匹敵する莫大なものであったと言われていますが(一部はカトリック本部のローマに流れていました)、修道院が解散させられることによって広大な所領は国王のものとなります。国王はこの広大な土地を長期的に直接統治することなく払い下げることにより、王室財政を危機から救おうとします。結果的に、土地の払い下げを受けた貴族、ジェントルマン、商人など新興勢力の台頭の一因になりました。

ファウンテンズ修道院もその例外ではなく、修道院の建造物群と2平方キロメートル以上の土地が王権によって商人リチャード・グレシャムに払い下げられました。修道院の財産はグレシャム家の数世代に受け継がれた後、現在も敷地内に残るファウンテンズ・ホールを建てたステフェン・プロクターに売却されます。

19世紀、ファウンテンズ修道院の廃墟の美しさは、中世への憧憬や民族意識の高揚を特徴とするロマン主義の芸術家たちを刺激し、20世紀(1986年)のユネスコ世界遺産登録につながっていきます。

ファウンテンズ・アビーの建築
世界遺産に登録される基準として、ファウンテンズ修道院及びスタッドリー王立公園は、「人類の創造的才能を表現する傑作」「人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例」という基準を満たしたとみなされています。
12世紀に作られた聖堂の身廊と翼廊はフランスのフォントネーシトー会修道院によく似た構造で、柱頭やコンソールの装飾にはアングロ・ノルマン的な要素が見られる。13世紀に完成した礼拝堂はイギリスで最初に尖塔アーチで飾られ、従来の清貧を旨とするシトー会の様式とは異なるものとなっている、と言われています。
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スタッドリー王立公園の歴史
1539年ヘンリー8世による修道院解散令の結果、修道院の建造物群と2平方キロ以上の土地は、王権によって商人に払い下げられます。

その後、17世紀に政治家のジョン・エズラビーがスタッドリーの地所を相続します。野心家だったジョンは、1695年にイギリス議会のトーリー党員になり、1718年には大蔵卿に任命されます。ジョンは、南海会社(アフリカの奴隷をスペイン領だった中南米諸島に輸送し利益を得て、その利潤でイギリスの公的債務を整理することを目的に設立された会社)の主要なスポンサーでしたが、間もなく金融業に軸足を置くようになった南海会社が1720年に南海泡沫事件という金融バブルの破綻を引き起こします。これを受けてジョンは議会から追放され、ヨークシャーに戻ってきます。

ジョンは、1718年に造園を始めていた庭園を作り上げることに専念すると、息子のウィリアム・エズラビーはファウンテンズ修道院も買い取り、庭園を拡張していきます。ウィリアムは、ロマンチックな様式で風景式庭園を拡張し、18世紀のイングランドでは最重要級となるウォーターガーデンを造園します。

その後、20世紀になると庭園は1966年にウェストライディングの州議会が買い上げた後、1983年にナショナルトラストの管理下に置かれるようになります。




ファウンテンズ・ホール
公園内にあるファウンテンズ・ホールは、1598年頃から1604年頃にかけて修道院を購入した資産家のステフェン・プロクターによって建設されました。エリザベス朝時代の優れた大豪邸であるホールは、部分的にファウンテンズ修道院の遺跡の石を再利用しているもので、現在は2室のみが一般公開されています。

スタッドリー王立ウォーターガーデン
スタッドリー王立ウォーターガーデンは、ジョージ朝時代のウォーターガーデンの特色をよく伝えている、現存しているものの中では最良の部類に属するウォーターガーデンです。
1718年にジョン・エズラビーが創設したものを彼の死後、息子のウィリアムが隣接するファウンテンズの土地を購入しつつ拡張しました。庭園の優雅な装飾の施された湖、水路、神殿を模した建物、滝などは、見目麗しい景観を提供してくれます。
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